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江戸時代の街道

街道

関ヶ原の戦いで勝利を収めた、徳川家康が慶長6年(1601)に交通・運輸の便宜を図るために街道の整備を始めました。東海道を上方と江戸とを結ぶ最も重要な街道として位置づけ、宿駅ごとに人馬を常置させ、公文書や荷物を次の宿駅へと輸送する伝馬制度をいち早く制定し、翌慶長7年には中山道にも伝馬制度を定めました。
そして寛永12年(1635)に徳川家光によって参勤交代が制度化され、街道と宿場の通行が、より活発化していくようになりました。
街道

五街道

「五街道」の呼称が使われ始めたのは、道中奉行が万治2年(1659)に設置され、管轄下となった街道の名称を略したことによっています。その5つは「東海道」「中山道」「日光道中」「奥州道中」「甲州道中」になります。この五街道は、全て江戸の日本橋が起点となり、各方面へと道が伸びてゆきます。
また、五街道は全国支配・江戸防衛の目的から、天領(江戸幕府直轄の領地)・親藩(徳川家の近親が封ぜられた藩)・譜代藩(関ヶ原の戦い以前より徳川家につき従っていた臣下の藩)を配置しており、政治や軍事機能を発揮できる体制がとれるようにしていました。
さらに五街道には付属の街道があり、佐屋路・美濃路・例幣使道・壬生通り・水戸佐倉道・本坂通り・日光御成道などとなっており、五街道に次ぐ重要な道として位置づけられていました。

脇往還・脇街道・脇道

五街道と付属街道以外の道は、脇往還や脇道などと呼ばれ、これらの道は勘定奉行の管轄下にありました。しかし、幕府の管理が及んでいたのは道路の付け替えや人馬賃銭額決定など一部に限られており、それ以外の伝馬数決定などは所在地の領主がその支配していました。道としては、伊勢路・中国路・佐渡路などが挙げられます。
また、五街道が通らない遠隔地では、脇街道が主要な幹線道路として使用されていました。

東海道

江戸の日本橋と京都を結ぶ基幹道路です。総距離は約496km、宿場数は53宿、関所は箱根・新居に2カ所ありました。草津宿で中山道と合流しています。
参勤交代をする150前後の大名や年賀などで参府する公家、京都・大坂・長崎へ往来する幕臣、また物資の輸送や通信などでも多く使われ、武士や庶民の往来が盛んでした。
東海道

中山道

東海道は難所が多く川越や海上の舟渡しなどがあったのに対し、中山道は道こそ険しいものの、川留めの心配もないことから、女性が好み通る道でした。江戸の日本橋から草津まで総距離は約539km、宿場数は67宿で、関所は碓氷・福島・贄川に3カ所設けられていました。
信濃国の木曽路を通るので、木曽街道などとも呼ばれていました。また18世紀以降は、善光寺や妙義山、近江国の多賀大社など、参詣・参拝者が多く通りました。
中山道

日光道中

江戸の日本橋より日光東照宮門前の鉢石まで通じる街道です。元和3年(1617)に徳川家康の廟所が久能山より日光山へ移されて以来、代々の将軍や諸大名が日光社参の道として用いられていました。総距離は約143km、21の宿場があり、関所は栗橋に1カ所設けられていました。
日光道中の利用は、奥羽諸藩の参勤交代の路や日光関係の通行のみと、利用者は限られていました。江戸への廻米や商品輸送は、主に舟運が利用されていたからです。

奥州道中

日光街道の宇都宮から分かれ、奥州白河へと続く道です。東北の外様大名間で変事が起こった際に、すぐに駆け付けられるように整備された道です。総距離は84km、11の宿場がありました。
白河以北は仙台道・松前道と続き、陸奥国(今の青森県)三厩(みんまや)までありました。 奥州道中は、都市や物流が少ない地域を通る道だったので、交通量全体はさほど多くはありませんでした。

甲州道中

日本橋を起点に、中山道の下諏訪宿まで約211kmの道のりです。江戸城での有事に備えた避難経路としての機能を兼ねており、沿道には鉄砲百人組(伊賀組・根来組・甲賀組・青木組)が配置されていました。宿場数は44宿、関所が小仏と鶴瀬に2カ所設けられていました。(宿場の数え方については、古来諸説あり、一定していません)
当初、甲州海道と呼ばれていましたが、海を通る道ではないとの理由で、享保元年(1716)に甲州道中と改称されました。
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